日露戦争戦陣日誌

2011年4月10日 (日)

日露戦争戦陣日誌のこと

ずいぶん前に 山口県の日露戦争に 出征した方の手帳を その子孫の

ある 荻窪在住のおばさんに預かって 清書して このブログにも掲載していたのだが

最後の 数ページを解読し清書掲載していなかった。

出征兵士の ひ孫がおばさんにあたるわけだが 兵士の孫である おばさんの

お父さんに 僕が書いた清書を見せたら すごく喜んでくれたという。

今日 そのお父さんが 今年の1月に 亡くなったと聞いた・・・。

88歳だったそうだ。

後数ページ 早く清書しておけばよかった・・・。もう遅いけど。

ずぼらな 性格を 反省しながら とぼとぼ青梅街道を 歩いて帰りました。

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2009年12月13日 (日)

日露戦争戦陣日誌14

日露戦争戦陣日誌14

二月二十二日 晴天工事に従事

二月二十三日 準備

二月二十四日 当日 二字不明であるが多分満州軍総攻撃の命あり

          我が旅団は口ヘンに句山子に集合の命あり

          午前は出発準備をなす、軽装して午後八時二十五分

          楡樹○(一字不明)を出発し口ヘンに句山子に集合す

          同十一時半当地出発 嶺を越えて行軍を始む

二月二十五日 天明喩○嶺の麓に於いて休み その夜は当地に

          露営をなす

二月二十六日 晴天午前四時二十分出発 天明の頃一里半ばかり

          にして旅団の集合地に着す 午後0時半出発して

          戦闘隊形に移る 側面の中隊○隊して行進す

          1500メートル 突に○○ 窯溝南方高地を占領す

          当山腹に露営をなしその日夕方より雪降る 寒気強し

二月二十七日 晴れ 当所に在りて防禦工事に従事す

二月二十八日 晴天 当日午後三時より其の附近前方村落に至り

          鹿砦の切り取りに出る 午後五時半頃より我が陣地

          を砲撃せらる 一時間ばかりして止む

          この日砲撃にて第二大隊に損害多く 死傷者十五六

          名あり 当日我が四十二連隊副官負傷をなし

          第一大隊副官之に替わる

(欄外に二月二十六日より三月一日まで下達見西南方高地の戦闘と記載あり)

三月一日 午前二時出発 夜襲に移る 午前八時頃 丸山砲台の山麓に

       到着す 当時 非常なる砲撃を受け其の途中我が中隊にて

       四名負傷をなし当地に露営す

三月二日 晴天 非常準備をなして当地に終日止まる

三月三日 天明頃より出発し登山をなす砲台より八百メートル突の地まで

       前進し第四中隊は砲台に肉迫して死傷者を出す

       当日は山腹の谷間に在りて時機を待つ

       午後四時頃後備第十一連隊南方峠を越えて前進を始め其の途中

       砲台より急砲撃及び機関砲を受け 其の間困難をなす

       午後七時頃外套を脱し軽装して突撃に移る準備をなす

       ○○二字不明命あり我が旅団は砲台の攻撃をなす各将校以下は

       決死の覚悟をして進撃すべし、若し成功せざるときは 切腹すべし

       と云あり 同九時に至り突然取止めの命来る同十二時第二大隊に

       交替して元の位置に帰る

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2009年12月 8日 (火)

日露戦争戦陣日誌13

先日の 「大人の科学 二眼レフ」試し撮り二回目の 写真を置き換え

二枚ほど追加しときました。良かったら見てみてください。

日露戦争戦陣日誌13

二月一日 日直をなす

二月二日 酒 煙草を給せらる

二月三日 晴天 工事に従事す

二月四日 晴天当日分隊長昇進の祝宴あり

二月五日 晴天工事に従事す

二月六日 晴天右同断

二月七日 晴天休み午後五時より夜間演習をなす 十時過ぎ帰る

       寒気強し

二月八日 晴天工事に従事す

二月九日 晴天午前九時より口ヘンに句山子附近に至り工事をなす

二月十日 晴天休み

二月十一日 晴天休み 紀元節なれば酒肴を給せらる外に岡沢侍従武官

        より酒肴料十二○○(二字読めず)を賜る

        紀元節とは神武天皇の即位日として定められた祝日

        現在の建国記念日です。

二月十二日 晴天日直をなす

二月十三日 晴天休み

二月十四日 晴天 当日恩賜の菓子及び煙草を賜る

二月十五日 晴天午後勅○(一字不明)を侍従武官よりの奉読式あり

二月十六日 晴天工事に従事す

二月十七日 晴天休み

二月十八日 工事に従事

二月十九日 晴天右同断

二月二十日 晴天工事に従事す

続く 

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2009年11月29日 (日)

日露戦争戦陣日誌12

文春文庫「日露戦争」5巻から先が見つかりません。

大河ドラマ「坂の上の雲」も始まりますねー。

日露戦争戦陣日誌

一月十日晴天 午前九時より新街嶺の西南の山に至り散兵壕を築く

同月十一日 同断

同月十二日 休み

同月十三日掃除検査有り

同月十四日工事に往く

同月十五日舎内外掃除をなす

同月十六日休み

同月十七日同じ 午後大隊長の清潔検査あり

同月十八日工事に従事

同月十九日同断

同月二十日同断

同月二十一日新街嶺の工事に従事す

同月二十二日休み

同月二十三日雨降り寒し当日も工事に従事す

同月二十四日晴天寒気強し休み

同月二十五日晴天寒気強し例の如く工事に従事す

同月二十六日降雪寒し右同断(原書は縦書き)

二十七日は記載なし

同月二十八日晴天休み

同月二十九日同 工事に従事

同月三十日晴天同断

同月三十一日休み

続く

二月の末までは こんな調子が続くのですが その後かなり濃い内容に

なりますので 我慢してください。

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2009年11月23日 (月)

日露戦争戦陣日誌11+昨夜の晩飯

日露戦争戦陣日誌11

いよいよ 明治38年に入ります。日露戦争のクライマックスです。

明治三十八年

一月元旦晴天新年式をなす

一月二日晴天当日旅順陥落の報来る

一月三日晴天当日夜酒宴をなす

一月四日晴天休み当日酒二合を賜る

一月五日晴天休み当日午後中隊長より酒二合及び小隊長より酒肴料を賜る

一月六日晴天当日日直

同月七日晴天休み

同月八日晴天午前九時より大隊長の武装検査あり、午後旅順陥落の祝酒を

      給せらる

同日九日晴天午前九時より射撃をなす、午後二時より大嶺の寺に於いて

      布教僧○(一字不明)の説教あり

続く

昨夜の晩飯

Toumorokosi 冗談みたいなメニューですなー。(゚ー゚;

トウモロコシと パック麦飯に炒めたソーセージ。

全部100円ショップのなんで 総予算315円、手間いらず。

トウモロコシも茹でたのがパックになっていて 電子レンジで

1分加熱すればいいのですが 温めた後ガス火で軽く炙ってみました。

けっこう 香ばしさがでて おいしかったです。(AD堀くんのまね?)

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2009年11月15日 (日)

日露戦争戦陣日誌10

昨日の記事で 投稿記事数が300になりました。

日記だと思えばなんてことはないんだけど 小学校以来日記をつけても

一月続いたことが無い事を思えば ブログも捨てたもんじゃないねー。

文春文庫「日露戦争」4 81頁まで読み進む。

ちょうど 遼陽陥落(明治37年9月4日)の時点

戦陣日誌の主 成川上等兵の部隊はまだ 日本にいる。

では 日露戦争戦陣日誌10

この日午後より雪降る夜中降り続く 翌日二十六日晴天休み 

翌二十七日上番 上牛心台に至り下士哨となる 翌二十八日下番

翌二十九日晴天休み 翌三十日休み

(結構休みが多い事に 驚く、明治の軍隊は 健全のよう)

翌十二月一日休み翌二日当地引き上げ第四中隊と交替し本渓湖に

帰る 当地にて○商の清国人の家に舎営し二十三日間滞在

日々 警壕及び木切?其外衛兵勤務に従事

十二月二十五日当地引き上げ第三十九連隊第二大隊と交代して

我第一大隊は 本渓湖を去る北方二里ばかりして火連賽其の西北に

在る三十町ばかりにして楡木低?という村落に舎営す

当地より西南三十丁ばかりにして李樹溝あり この地に第一軍第二

野戦病院あり この道路より遼陽に通ずる又楡樹低下より北方

二十丁ばかりして大嶺あり それより進んで三十丁ばかりして高家堡

あり それより一里ばかりして口ヘンに勾山子(コウザンシ?)

それより西北三十丁ばかりして上関橋それより僅かにして下関橋あり

平台子は其の北方に当る口ヘンに勾山子より東方に進めば新開嶺を

越え高台子に至る 其の里程は二里ばかりである。

(地理の案内を記してるんですね)

翌十二月二十六日は晴天 休み 翌二十七日は晴天 この日

斥候の命を受け第一中隊岡本軍曹に従い各中隊より三名づつ合して

九名 午前八時出発 大嶺を越え高家堡を経て其れより山路を越えて

張蛮溝に出る それより高台子に至り当所に至り当所に騎兵旅団司令部

あり 其れより鶴河堡子に至る 当地に我が第二四十二連隊第二大隊

本部及び第六中隊第七中隊本部あり 当地附近を偵察して新開嶺を経て

口ヘンに勾山子より高家堡を通して午後六時頃帰る

当日 恤平部(ジュッペイブ)より寄贈品として菓子一箱 はがき十枚

靴下一足 手拭一枚を受く 翌日二十八日は休み 

(恤兵部:戦地に慰問で送られるものを「恤兵」という、それを管理する部署)

翌二十九日休み

翌三十日休み 翌三十一日 糯米一人に付五合 酒一人に付五合

その他牛肉 煙草 頂く この日餅爨をなす。

午後より忘年会の宴をなす。

(明治の軍隊は給与がいいようですね。お酒五合は大盤振る舞いですよ)

続く

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2009年11月14日 (土)

日露戦争戦陣日誌9+今日のニュース

今日の朝刊より

政府の行政刷新会議は13日の事業仕分けで科学関連事業の大幅削減を

求めた。特に次世代スパコンの予算見送りについて 民主党の蓮舫らが

「世界一の性能である理由が無い」とか タワケたことを強く発言した。

スパコン以外の科学的予算は 現実に大幅に削られることになったらしい。

日本の 将来の技術立国は相当遅れるでしょうね。この連中のせいで。

日本が将来において 強くなると困る人々の代表なんだなと 確信したね。

そこで明治の愛国心が現在の100倍くらい強かったであろう兵士の日記

Photo この戦陣日誌を 貸してくださった方(日誌を記した成川上等兵殿

のひ孫)が月末に山口に帰省して この解読?文章を

お父様にも読ませたいとのこと ちょっと文章の量を稼ごうと

思います。

日露戦争戦陣日誌8よりの続き

翌七日正午より第二小隊は 村井少尉小哨長となりて玉官溝に出り当地

警急舎営をなす。翌九日引き続く翌十日正午第三小隊と交代す。

翌十一日午後六時より予は徒渉場監視として卒六名を連れ出発

翌朝十二日午前八時引き上げ 翌十三日晴天 午後より第三分隊は

第二下士哨となりて下士1卒9名にて出勤す

皆防寒外套、毛皮靴下、頭巾等渡る 当日夕景より雪降り寒気甚だしく

加わる 翌十四日晴天正午より第二小隊は小哨となりて玉官溝に

出務す 翌十五日午前三時より予は小哨長の命に依り兵卒吉井 土井

○村の三名を連し東洞溝附近の偵察の命を受け三里ばかりなる高山に登り

展望して同八時帰る 翌十六日当地引き上げ正午頃より一里ばかりなる

後方下牛心台に至り前哨中隊となる 当地 趙花枝と云う清国人の家に

舎営す 翌十七日晴天 休み 翌十八日午前九時より当地の山頂に

至り支那人夫を使って掩堡を築く 正午帰る 午後五時より我が分隊長

以下十五名紅臉溝に至り下士哨となる この地は 牛心台を去る五六丁

ばかりの村落なり 当地より磈木溝及び東塞子に至る道路を警戒す

翌十一月十九日午前七時半帰る 翌二十日晴天休み

当地有名なる李元勳と云う先生に頼んで書画二枚を調べたり

翌二十一日当地より小南溝に至る峠に至り下士哨となる翌二十二日帰る

翌二十三日休み 翌二十四日午後三時より老鶴○子に至りて我が分隊

は独立下士哨となる 此れを決死隊と云う

翌二十五日午後五時下番となる

続く

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2009年11月 7日 (土)

昨夜の晩飯+日露戦争戦陣日誌8

昨夜の晩飯

Inxmini01 キャンベルのクラムチャウダー

牛乳で のばして暖めるだけ。

クイーンズ伊勢丹で買ったイギリスパンという食パンを

ご飯代わりにしました。

三人前なんで 残した分は 冷凍。

冷凍された 残りもんって 溜まるんだよねー。

それで あまり人気のない日露戦争戦陣日誌

この戦陣日誌を読んで頂いている人って いるんですかね?

いなくとも最後まで続けます覚悟であります。

122dd0920ea0369e4bc72210_l__sl500_a この戦陣日誌の参考に 文春文庫の「日露戦争」を読み進めて

いるのだが この3巻目にしても 6月から8月にかけての

海軍の動き及び黄海海戦、陸軍の旅順攻略から首山攻略まで

で 日誌の日付(現在10月から11月)に追いつかない。

この「日露戦争」だが 書店 ブックオフにも全然ないんで 必死こいて

自宅の隅から見つけました。4巻までしか見つかってないのが悔しい。

7よりの続き

同日午後七時二十分 命令有り 中隊は明日午前五時三十分本渓湖に

向かって出発せよ

翌二十四日命の如く五時三十分整列 六時出発す

橋頭を去る半里ばかりの所より右にとりて前進し太子河を渡りて

午後三時四十分本渓湖に着す。民家に舎営す。翌二十五日滞在

翌二十六日午前九時出発 太子河の左岸二里ばかりの上流なる臥龍山に

至り工事をなす 翌二十七日休 翌二十八日臥龍山にて工事

翌二十九日休 当日 毛布を受く

翌三十日 風紀衛兵に立つ 翌三十一日休 当日午後より 第三分隊は

下士哨となり其の任につく 翌十一月一日午前七時三十分出発

第三中隊は太子河の左岸に在る老鸛(石偏に立)子の守備に任ぜられる

当地は本渓湖を去る東北に三里与の敵と愈々(いよいよ)接近し 僅かの間に

太子河を○て 対陣す

翌二日休 ○○一般○警急舎営をなす 或る一部は 小哨及び下士哨を

出し又 騎兵一個中隊日々交替し当地附近を偵察す

時々斥候の衝突あり 翌十一月三日天長節にて中隊式をなす

(天長節とは 天皇の誕生日のこと)

当日牛豚酒等の給養あり 当日騎兵斥候の衝突 銃声を聞く

翌四日晴天 此の日酒肴料として金二十○(銭?)を賜う 当日夕方より

翌五日朝まで銃前哨となりて 兵卒6名を連れ出務す 翌六日晴天

当日上番下士哨として下士一 卒八名 第三分隊長引出つ

(上番とは 当直などの勤務につくことをいう 終わるのを下番という)

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2009年10月30日 (金)

日露戦争陣中日誌7

例の 女結婚詐欺師の写真が 東スポに出ているそうです。

やりますねー!

「探偵ファイル」というサイトでも 見れます。

高校時代の写真みたいです。こんな女に 金とられて殺されたんであれば

浮かばれない。

話は全く変わりますが、

日露戦争の流れを(途中まで) 書いておきます。

明治37年(1904年)2月6日開戦

同年2月8日 日本海軍が行った旅順港のロシア旅順艦隊への

        攻撃が実際の戦闘開始

同年2月10日宣戦の詔勅

同年4月30日~5月1日 陸軍の第一軍とロシア陸軍との鴨緑江会戦

同年5月26日 陸軍第二軍とロシア陸軍との南山の戦い

同年8月10日 黄海海戦

同年8月24日~9月4日 遼陽会戦

同年10月9日~10月20日 ロシア陸軍が攻勢に出るが日本軍の抵抗に

        あい失敗、(沙河会戦)

この陣中日誌の主はこの頃 減廠?というあたりまで来ているわけです。

では続きです。

翌日二十日午後一時出発噴水嶺を去り二里ばかりの所の民家に舎営す

翌二十一日午前六時三十分出発 東噴水嶺を越えて午後三時に賽馬集

に着す このとき昼夜兼行して本隊に合せよとの命あり 同三時三十分

出発す 同十時二十分四道口兵站部に到着し当地にて夕食をなし続いて

十二時出発 翌二十二日西噴水嶺と称して満州第一の険悪なる峠を越え

上下二里余此峠に取り付く時は月は沈み暗夜にて余程困難しつつ

頂上に達す 休息中天明と成る 九時二十分通子峪兵站部に着す

当所にて休憩の上 午後三時三十分出発 同六時頃サンソーシに

着し大隊本部に合したり その夜民家に舎営す翌十月二十三日滞在

続く(次あたりから前線に近づくようですよ)

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2009年10月23日 (金)

日露戦争陣中日誌6+世間話

昨日から テレビでは高相某とか押尾某のニュースで一杯ですねー。

高相某の裁判所での態度が どうのとコメンテーターさん達の 偉そうな事!

違法なクスリやってたり タトゥーを入れてたりしている人間が 優等生的な

態度をとれるほうが 不思議でしょうが!

元々 常識的な態度をとれないんだって ψ(`∇´)ψ

公衆浴場や プールでは刺青をしている人はお断りという旨の貼り紙を

見ますよねー。テレビでは タトゥー入れた芸能人達がごろごろ出ている

んだけど いいんですかね?それこそ公衆が視聴しているんですが。

彫りもんともいいますが そういうのを入れている人=悪もんとは

思わないけど 反社会的な奴の比率は高いよね。

江戸時代 火消し人足 飛脚 籠かきのように 年中裸でいた連中が

全身に彫りものを入れ始め それが職人やらヤクザもんに広まった

んで 普通の堅気はやらないもんなんだよね。

入れている人たちも 社会に迎合しないぜ!ってタトゥーで以って表現して

いるんだろうし。

若い娘の 小さいワンポイントくらいのは 僕的には許容

できるけど。 二十歳前後 彫もん入れようかなーっと一瞬だけ考えたことが

あったけど。まぁ 入れなくて良かったと 思ってる。柔侠伝の主人公に

憬れただけだから。(馬鹿すぎー)

なんにしても テレビに「タトゥー有り」は 出したらいくない。

有名な彫師の人も 彫もんは見せびらかすもんじゃないよ!って言ってたな。

(今のところ 不評気味の日露戦争従軍日誌、坂の上の雲が 始まったら

すごいかも?)

日露戦争従軍日誌6

此の日は急行軍の○とて昼食炊事の暇なく携帯口糧を以って食事す

其所にて舎営す。 翌十月十七日滞在翌十八日小旬子附近を偵察

しつつ在る三十九連隊即ち三輪隊へ糧食送達護衛として我が第三

中隊は 午前十時三十分出発す

当日は雨天の為道路非常に悪し且つ加ふるに架橋なく徒渉場多く

水は腰部に達し急流にて困難を極めつつ六里ばかり前進し

馬家城子に着し 午後七時民家に舎営す

此の日 予は急流の為銃を河中に落とし困難此上なし

(河に鉄砲落として 見つけたんだろうか?)

翌十九日午前七時出発一里ばかり前進して大河あり水腰以上に達す

徒渉終わる頃我が大隊本部より伝令使来り

三輪連隊は帰れりとの報あり 依て直ちに帰途に付きたり

此の時予に斥候の命を受 河久保軍曹に従い我が分隊より

益田、有久、鳥飼共に隊より一里ばかり前進し居た○其○帰路道

を○にて午後十一時過ぎ減廠に帰着 舎営す

続く

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